打越正行さんの「ヤンキーと地元」を読みました。
先日、湘南の蔦屋書店にて、社会学コーナーを発見。
手に取った数冊の中でも、
打越正行さんの「ヤンキーと地元」に夢中になって、そのまますぐに購入しました。
せっかくなので、感想を記録したいと思います。
ちなみに、
岸政彦さんの「はじめての沖縄」、
上間陽子さんの「裸足で逃げる」を読んで、
少しでも心に残った人は、ぜひこの本も読むべし!!と思います。
打越さんの「参与観察」のスタイル。
この「ヤンキーと地元」は、沖縄の若者たちを「参与観察」した本。
つまり、作者の打越さんが、
実際に、調査対象となる暴走族や建築会社の集団に加わって、
ともに毎日を送りながら、
その場で聞いたり知ったり感じたり、
途中でインタビューしたりした内容がまとめられています。
この本を読んでみて、
少しずつ感動を覚えていったのは、
打越さんの「参与観察」における姿勢でした。
実際に、暴走族の「パシリ」になったり、
日雇いの労働者として建築現場に通ったりして、
集団の一員になっていくわけですが、
それは「潜入調査」みたいなものではありません。
どうやら、ちゃんと、
「こういう調査をしているので参加させてほしい」と伝えている。
時には、私服警官だと誤解されたり、
なかなか心を開いてもらえなかったりするけれど、
正直に目的を伝えて、「だから集団に入れてほしい」と。
社会学の調査では、
こういう姿勢は常識なのかもしれませんが、
素人としては、しみじみと感じるものがありました。
誰かとコミュニケーションをとって、
その人のことを聞かせてもらうときに、
まず自分が嘘をつかない、正直に伝える、
だからこそ相手との関係が芽生えて、
少しずつ相手の語りを聞くことができる。
人間関係の、とても基本的なところって大切なんだな、と思いました。
そんな打越さんに対して、
「観察対象」でもあり「仲間」でもある若者たちは、
この本には、打越さんが、
暴走族や建築現場で交わした会話や、
飲みながらの会話、インタビューでの会話など、
「個人的な話」がたくさん詰まっています。
そして、その「個人的な話」をもとに、
そこから見えてくる沖縄の社会の特徴や性質を、
ひとつひとつ、ていねいに説明してくれます。
けして「ここが問題だ」とか、
「これが悪い習慣だ」とか、評価を下すのではなく。
沖縄の地元社会やヤンキー社会には、
こういう特徴があるんだよ、
こういうことがわかったよ、
と冷静かつ面白く教えてくれます。
感情的な文章ではなく、
この本に登場する沖縄の「若者」や「ヤンキー」の言葉は、
みんな、命のかたまりのような、熱を帯びているように感じます。
それは、彼らのごくごく日常に、
殴り合いや、肉体労働や、バイクのツーリングがあって、
身体の一つ一つの感覚を頼りにしながら、
毎日を生きているからかもしれません。
そうした一人一人の言葉や境遇に出会い、
思いをはせるときに抱いた感覚は、
その人生に対する、敬意のようなものでした。
「この人は社会に貢献した」とか、
「この人は家族にやさしい」とか、
そういうことではなく、
「この人は、人生をここまで生きてきた」ということに対する敬意。
それは、作者の打越さん自身が、
相手に敬意を払っているからこそ、
読者もそうならざるを得ないのかもしれません。
本書で紹介されている沖縄の若者たちは、
私から見ると、そのほとんどが過酷でしんどい、
毎日安心できない、気を張らざるをえない環境で生きているように見えます。
ひとつひとつの暴力や、家庭環境が、
こんなものが許されていいのか、と思う話ばかりです。
でも、本人にとっては、
誰かに暴力を振るわれたとか、
誰かに粗末に扱われたとか、
それは悲しくてつらい「いっときの出来事」ではなくて、
その人の絶え間なく続いている「人生の一部分」であり、
地元社会で多くの先輩が経験してきた「社会の一部分」でもあります。
沖縄には、こうやって、脈々と保たれている社会がある。
沖縄には、その一部として生きている人間がいる。
人を苦しめる環境は一つずつ無くなっていくべきだと思う一方で、
「うわー、苦しい環境だね、おかしいよそんなの」ではなくて、
なぜそのような社会が生まれ、なぜ苦しみつづけているのか、
それをもやもやした気持ちを抱えながら、
少しずつ心を開いていきます。
「一人の人間の話」と「沖縄の社会」のはなし。
この本には、打越さんが、
暴走族や建築現場で交わした会話や、
飲みながらの会話、インタビューでの会話など、
「個人的な話」がたくさん詰まっています。
そして、その「個人的な話」をもとに、
そこから見えてくる沖縄の社会の特徴や性質を、
ひとつひとつ、ていねいに説明してくれます。
けして「ここが問題だ」とか、
「これが悪い習慣だ」とか、評価を下すのではなく。
沖縄の地元社会やヤンキー社会には、
こういう特徴があるんだよ、
こういうことがわかったよ、
と冷静かつ面白く教えてくれます。
感情的な文章ではなく、
冷静な言葉で、
一人一人のセリフやエピソードと、
そしてそこから見える社会の特徴を、
いったりきたりするので、
そしてそこから見える社会の特徴を、
いったりきたりするので、
本当に興味深く、ページをめくる手がとまりませんでした。
沖縄の社会と人間と。
この本に登場する沖縄の「若者」や「ヤンキー」の言葉は、
みんな、命のかたまりのような、熱を帯びているように感じます。
それは、彼らのごくごく日常に、
殴り合いや、肉体労働や、バイクのツーリングがあって、
身体の一つ一つの感覚を頼りにしながら、
毎日を生きているからかもしれません。
そうした一人一人の言葉や境遇に出会い、
思いをはせるときに抱いた感覚は、
その人生に対する、敬意のようなものでした。
「この人は社会に貢献した」とか、
「この人は家族にやさしい」とか、
そういうことではなく、
「この人は、人生をここまで生きてきた」ということに対する敬意。
それは、作者の打越さん自身が、
相手に敬意を払っているからこそ、
読者もそうならざるを得ないのかもしれません。
本書で紹介されている沖縄の若者たちは、
私から見ると、そのほとんどが過酷でしんどい、
毎日安心できない、気を張らざるをえない環境で生きているように見えます。
ひとつひとつの暴力や、家庭環境が、
こんなものが許されていいのか、と思う話ばかりです。
でも、本人にとっては、
誰かに暴力を振るわれたとか、
誰かに粗末に扱われたとか、
それは悲しくてつらい「いっときの出来事」ではなくて、
その人の絶え間なく続いている「人生の一部分」であり、
地元社会で多くの先輩が経験してきた「社会の一部分」でもあります。
沖縄には、こうやって、脈々と保たれている社会がある。
沖縄には、その一部として生きている人間がいる。
人を苦しめる環境は一つずつ無くなっていくべきだと思う一方で、
「うわー、苦しい環境だね、おかしいよそんなの」ではなくて、
なぜそのような社会が生まれ、なぜ苦しみつづけているのか、
それをもやもやした気持ちを抱えながら、
学びつづけていきたい、と思います。
本を読んだらますますもやもやしてしまった。
それでいいんだと思います。
それだけ、この本には、
けしてシンプルにまとめられない一人ひとりの異なる人生と、
その人生の舞台である「沖縄」が、
詰まっていました。