最近、国会議員のとんでもない発言がよく取り上げられる。

先日は、某女性議員が、LGBTは生産性が無いから支援の優先度は低い、というようなことを発言した。

こういう発言を目にするたびに、
あまりの的外れっぷりに言葉を失う。
突っ込みどころが多すぎて、なんて言っていいのかわからない。

でも、「なんて言っていいのかわからない」で済ませていいんだろうか。
この強烈な違和感を、ちゃんと言葉にしておいたほうが良いのでは?とも思う。
「何かおかしい」と思ったときに、その「何か」をうまく言葉にできないと、結局飲み込むしかなくなってしまう。
わたしはそんなの嫌だし、自分の家族、特に息子にも、嫌なことをちゃんと言葉にできる人間に育ってほしい。

というわけで、わたしは一体、トンデモ議員の何に、言葉を失っているのか。改めて言葉にしてみようと思う。


動画を見てしまった。

某女性議員の記事だけではなく、動画も見てしまった。
そこで、さすがに怒りがフツフツと湧き上がってきてしまった部分がある。
今回の記事では、それを取り上げたい。

彼女は、日本で女性が生きづらいとされている点について、疑問に思っているらしい。
何故なら、「キリスト教国に比べて日本は衆道が黙認されてきたから差別が少ない」から。
そして、「男女の役割が区別されて女性が大事にされてきた」からだという。
さらに、「女性がお財布をにぎっている」ことも、女性を下に見るのではなく、女性の権利が認められている証拠の一つだそうだ。

その意見に、この番組のコメンテーターは大いにうなずき、
「日本には、かかあ天下という言葉がある」
「そもそも神様が天照大御神で女性だ」と、誇らしげに語っていた。

なかなかひどい動画を見てしまった。


「歴史とは、現実と過去との間の尽きることを知らない対話」

E.H.カーの「歴史とは何か」での、有名な一節がある。
歴史好きのわたしが、とても好きな言葉だ。

「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」

歴史は「単なる過去の事実」ではない。
歴史家の考え方や、現在の価値観によって、その見え方が変わってくる。
そういう対話は、尽きることがなく、ずっと続いていくもので、それこそが歴史の本質だ。

では、果たして、女性議員の語った
「キリスト教国に比べて日本は衆道が黙認されてきたから差別が少ない」
「男女の役割が区別されて女性が大事にされてきた」の発言は、何が問題なんだろうか?

わたしは、大きな問題がふたつあると考えている。

歴史を都合よく切り取って語る愚かさ

まず、ひとつめ。
もし、何千年前を生きた女性や、数百年前を生きた女性たちなど、過去の人々に話を聞くことができたら、いろんな意見の人がいるだろう。
「そうだ、わたしは家の中で大切にされて幸せだった」という人もいるだろうし、
「わたしは男性のように働きたかった、苦しかった」という人もいるはずだ。
「暴力をふるわれたけど、家庭の外には逃げられなかった」という人もいるかもしれない。

ものすごく当たり前のことだけれど、世の中にはいろんな家庭があって、いろんな人たちがいる。
それなのに、何故、「日本の女性は守られて大切にされてきた」なんて、簡単に言えるんだろう?

歴史の中の人々は、もうお墓の中にいて、話すことはできない。
だから、ごく一部の事実を、ごく一部の視点から切り取って、「日本人はこうでした」とひとくくりにして言われても、抗議することは出来ない。
でも、もしお墓の中でインタビューできたら、「嘘だ嘘だ!」の大合唱が起きるだろうと思う。

さらにたちが悪いのが、キリスト教国との比較を持ち出して、さも真っ当なことを言っているかのような雰囲気を出していること。
実際に、日本の女性たちが家庭でどう扱われていたか、どういう思いだったかなんて、まったく言及していない。
都合のよい、ごく一部の知識から、さも歴史を知っていて、正しいことを口にしているように見せかけるのは、ものすごく愚かなことだ。
過去を必死に生きた人々に、ものすごく失礼だと思う。
歴史を語って、先祖代々の人たちを重んじているように見えるけど、実際には都合よく使っているだけ。
ひどく軽く扱っていると思う。
馬鹿にしていると言ってもいいくらいだ。

もし、本人が、歴史を都合よく使っているのではなく、本当に歴史を正しく語っているつもりなら、よりタチが悪い。
ちゃんと一から勉強し直してほしい。
ぜひE.H.カーの「歴史とは何か」を熟読していただきたい…。

歴史がどうであろうと、目の前に苦しんでいる人たちがいる

そして、ふたつめ。
いま現在、苦しんでいる人たちがいる。
たとえ歴史がどうであろうと、どんな解釈をしようと、いま現在、苦しんでいる人たちがいるのだ。
過去の事実より何より、その現在生きている人々の苦しみがすべてではないだろうか。

わたしは歴史が大好きで、歴史を学ぶことは、いま現在を理解する大きなヒントになると思っている。
でも、それはあくまでヒントだ。
過去を学ぶだけでは、目の前で苦しんでいる人たちの気持ちはわからない。

目の前の人たちを理解しようとして、その一つとして歴史を学ぶのは素晴らしいことだけれど、
目の前の人たちをひとくくりにして、都合よく決めつけるために歴史を持ち出すのは、ものすごく腹が立つ。
そんなのは歴史ではなく、過去の事実の都合のよい切り取りだ。

「日本は昔から女性が守られてきた」と言っているけど、事実として、現在苦しんでいる人たちがいる。
その人たちから目を背けて、歴史を語ることに、なんの意味があるんだろうか?



強烈な違和感はたくさんあるんだけれど、歴史に関する部分で、こんなに長くなってしまった。
言葉にしたら、ちょっとすっきりした。

次のブログでは、何故、トンデモ議員は散々差別的なことを言ったあげく、「わたしは差別していない」と言えてしまうのかについて考えてみたい。